聖書は、世界を暗闇から始まる物語としては描いていません。 はじめから光があり、秩序があり、意味があるものとして語ります。

それでも、私たちの現実は、ときどきその光が見えにくく感じられます。何かが大きく壊れているというより、少しずつ、どこかがずれている。そんな感覚を覚えることがあるかもしれません。

人は、悪くありたいと願って生きているわけではありません。むしろ、よくありたい、正しくありたい、つながっていたいと願いながら生きています。それでも、思いとは違う選択をしてしまったり、守りたい関係を、自分の言葉や態度で傷つけてしまったりします。

比べなくてもいいはずなのに比べてしまい、隠さなくてもいいはずなのに隠してしまい、信じたいのに、疑ってしまう。

聖書は、こうした人の姿を、失敗の集まりとしてではなく、もっと深い「ずれ」として描きます。

それは、行動の問題というより、向きの問題です。本来向いているはずの光とは、少し違う方向を向いてしまっている状態。光が消えたのではなく、見えにくくなっている状態です。

その結果、人と人のあいだに距離が生まれ、自分自身とのあいだにも違和感が生まれ、そして、神とのあいだにも、説明しにくい断絶が生まれている、と聖書は語ります。

この断絶は、すぐに気づくものではありません。忙しさや習慣の中で、見過ごされてしまうこともあります。それでも、ときどき、ふとした瞬間に顔を出します。

満たされているはずなのに、満たされない。つながっているはずなのに、どこか孤独を感じる。意味があるはずなのに、手応えがない。

聖書は、こうした感覚を否定しません。弱さとして切り捨てることもしません。それらを、人が光から少しずれてしまった結果として、静かに見つめます。

だからこそ、聖書の物語は、「人がどうすれば神に届くか」から始まりません。むしろ、「神がこのずれにどう関わるのか」へと進んでいきます。

光があるのに、見えない。意味があるのに、つかめない。

その現実の中で、神は、ただ待つだけの存在なのでしょうか。それとも、別の関わり方を選ぶのでしょうか。

→ 光として語られる神