人は、間違えたときに、何を一番恐れるのでしょうか。責められること、拒まれること、もう関係が終わること。多くの場合、「正しさ」よりも先に、その恐れが心に浮かびます。
聖書の中で語られている神は、人が失敗した場面で、すぐに距離を取る存在としては描かれていません。むしろ、本来なら何かが終わってもおかしくないところで、語りかけが続いていきます。問いかけが残され、沈黙ではなく、声が置かれています。
それは、正しさがないからではありません。光がある以上、見えてしまうものはあります。隠していたこと、言い逃れてきたこと、自分でも見ないようにしてきたこと。それでも、その瞬間に訪れるのが切り捨てではなく、「待つこと」として描かれているのが、聖書の神の特徴です。
待つということは、無関心ではありません。放っておくことでも、見逃すことでもありません。それは、すべてを見たうえで、今すぐ決着をつけない、という選択です。時間を与えること、語り続けること、関係を断ち切らないこと。
聖書の物語の中で、神はしばしば、人が立ち返る余地を残します。やり直しを命じる前に、終わりを告げる前に、もう一度、声が届く距離にとどまります。
それは、人の弱さに振り回されて仕方なくそうしている姿ではありません。この神は、見ないから赦すのではなく、見たうえで、なお関わる存在として描かれています。
もし、「神」という言葉に、厳しさや裁きの印象が強く結びついているなら、聖書が描くこの姿は、少し意外に感じられるかもしれません。しかし、ここで描かれているのは、正しさを手放した神ではなく、正しさを急がない神です。
この「急がなさ」は、やがて別の問いを生み出します。なぜ、ここまで待つのか。なぜ、距離を置かないのか。その理由は、神が人に心を寄せるという選択をしているからだと、聖書は語っていきます。
次のページでは、その「寄り添い方」にもう少し目を向けてみます。神は、ただ待つだけでなく、どのように人の側へ近づこうとするのでしょうか。