イエスはなぜ来たのか、と聞かれたとき、キリスト教は少し意外なところから答え始めます。それは、「人が神を求めたから」ではなく、「神が人に近づこうとしたから」だ、という考え方です。

もしイエスが神なら、なぜわざわざ地上に来たのか。キリスト教は、その理由を「正しさを命じるため」や「人を裁くため」には求めません。むしろ、迷いの中にいる人に近づくためだった、と語ります。

遠くから言葉を投げかけるのではなく、上から見下ろして説明するのでもなく、人の人生の中に入るという形で。

人は、言葉や理屈だけでは、本当に大切なことを信じきれないことがあります。だから神は、空の上から語るのではなく、人として歩く道を選んだ、とキリスト教は考えます。

生まれ、働き、食事をし、喜びや疲れを知り、誤解され、拒まれ、痛みを経験する。イエスの人生は、特別な力を誇示するものというより、人が生きている現実の中に深く入り込むものでした。

聖書が描く人間は、悪意に満ちた存在というより、良くありたいと願いながらも、どこかずれてしまう存在です。恐れや自己中心、虚しさや傷つけ合いの中で、自分でも説明できない距離を抱えて生きている。その距離を、聖書は神との「断絶」として語ります。

だから必要だったのは、「もっと正しく生きなさい」という呼びかけではなく、壊れてしまった関係を回復する道でした。キリスト教は、イエスが来たのは、この断絶を人の努力によってではなく、神の側から埋めるためだったと語ります。

イエスの生涯は、その関わりがどこまで徹底していたかを示しています。それは、理解するところで止まらず、人が抱えている深い問題を、身をもって引き受けるところまで進みました。

十字架は、その象徴として語られます。神が人を理解するだけでなく、人が抱えている深い問題を、身をもって引き受けられたことのしるしとして。

キリスト教は、イエスの物語がそこで終わったとは考えません。死で閉じられたように見えた道の先に、新しい始まりが開かれたと信じます。それは、罪や断絶、絶望が、人の物語の最後の言葉ではない、という希望です。

神は、人を裁くためではなく、迷いの中にいる人を迎えに来るために、イエスとして来られた。そして、断絶を回復し、人がもう一度、光の中を歩き出すために来られた。

ここまで読んで、すぐに納得する必要はありません。信じるかどうかを決める必要もありません。ただ、キリスト教が語るイエスは、遠くから正しさを示す存在ではなく、人の現実の中に入ってきた存在として語られている、ということだけを、心のどこかに残してもらえたら十分です。

もし、この「神が近づく」という考え方が少し気になるなら、次は、イエスがどんな言葉を語り、どんな歩みをしたのかを、もう少し静かにたどってみてもいいかもしれません。