聖書が語る神、と聞いて、どんな姿を思い浮かべるでしょうか。

遠くにいて、すべてを見ていて、正しく生きているかどうかを静かに判断している存在。

あるいは、宗教の中にだけ現れる、日常とは少し離れた存在。

多くの人にとって、「神」という言葉には、すでにいくつかのイメージが結びついているかもしれません。

聖書の中で語られている神は、そうしたイメージと重なる部分もあれば、少し違って見えるところもあります。

それは、力を誇示する存在としてよりも、関わろうとする存在として描かれているからです。

聖書の物語の中で、神は黙って遠くから人を眺めている存在ではありません。

声をかけ、名前を呼び、近づき、人の歩みに寄り添おうとします。

興味深いのは、聖書がまず語るのが「人が神を探すこと」ではなく、神が人に近づくことだという点です。

探し求める側ではなく、見つけようとする側。

理解させようとするよりも、気づかせようとする姿。

その関わり方は、説明よりも、出会いに近いものとして語られています。

聖書のはじめの方で、神は「光」にたとえられます。

光は、無理に押しつけるものではありません。

何かを信じさせるために声を荒らげることもなく、ただ、そこにあるものを見えるようにします。

光が差し込むと、風景は変わらなくても、見え方が変わることがあります。

聖書が語る神も、そのように描かれています。

人を動かそうとする存在というより、人が自分の歩いている道に気づくことを静かに助ける存在として。

正しさを突きつける前に、まず近くにいること。

答えを与える前に、問いが生まれる余地を残すこと。

ここまで読んで、何かを理解する必要はありません。

納得しなくても、同意しなくてもかまいません。

ただ、聖書が語る神は、力や距離ではなく、近さや光として語られているのだ、ということだけを心の片隅に置いてみてください。

もし、この「光」という言葉が少し気になるなら、もう少しだけそのイメージをたどってみてもいいかもしれません。

光があるのに、はっきりと見えない。 意味があるはずなのに、手応えがない。

聖書は、この感覚をどのように見つめているのでしょうか。

→ 世界の中のずれ