聖書は、神を「光」として語ります。

光と聞くと、あたたかさや安心を思い浮かべる人もいるかもしれません。しかし、光にはもう一つの側面があります。それは、見えなかったものを見えるようにする、という働きです。

暗い場所では気づかなかったものが、光が差し込むことで、はっきりと輪郭を持ち始めます。そこに何があったのか、どこに立っていたのか、どんな道を歩いていたのかが、否応なく見えてきます。

聖書が語る神の光も、同じように描かれています。それは、人を動かすために押しつけられる光ではありません。信じさせるために照らされる光でもありません。ただ、そこにあるものを、そのまま見えるようにする光です。

光が差すと、安心することもあれば、少し居心地の悪さを覚えることもあります。隠していたこと、見ないふりをしていたこと、自分でも曖昧にしてきた部分が、はっきりしてしまうからです。

それでも、聖書の中で語られる光は、人を追い詰めるためのものではありません。暴くためでも、責めるためでもありません。むしろ、正しく向き合うことができるようにするための光として描かれています。

光がなければ、つまずいていることにも気づけません。道を外れていることにも、立ち止まる必要があることにも、気づくことができません。聖書が語る神の光は、その「気づき」を与えるものです。

だからこそ、この光には、やさしさと同時に、少しのまぶしさがあります。安心とともに、正直さが求められます。見えるようになることは、楽なことばかりではありません。

それでも、聖書は語ります。この光は、人を壊すために照らすのではない、と。迷っている場所を明らかにし、歩き直すために照らす光なのだと。

光が当たることで、すぐに何かが変わるとは限りません。ただ、見え方が変わることがあります。そして、見え方が変わると、これまでとは違う問いが生まれます。

自分はいま、どこに立っているのか。どこへ向かおうとしているのか。何を隠し、何を恐れているのか。

聖書が語る神は、まずその問いが生まれる場所として、「光」として描かれています。

この光に照らされるとき、人は初めて、裁かれる前に、見つめられていることに気づきます。急いで結論を出される前に、立ち止まる時間が与えられていることに気づきます。

次のページでは、その「時間」がどのように与えられているのかに目を向けてみます。聖書が語る神は、見えたあと、すぐに切り捨てる存在なのでしょうか。それとも、別の関わり方を選ぶのでしょうか。

→ 待つ神