キリスト教は、神が人に近づいた、と語るだけでは終わりません。 それだけでも十分に驚くべきことですが、聖書はさらに踏み込んだことを語ります。
神は、人に近づいたのではなく、人となったのだ、と。
それは、考え方や態度の話ではありません。 象徴や比喩として語られているのでもありません。 キリスト教は、神が実際に、人の時間の中に入り、人の生活を生きたと主張します。
その出来事を、聖書はイエスという存在を通して語ります。
イエスは、遠くから人間を理解しようとした存在ではありませんでした。 人の世界を外側から観察していた存在でもありません。 人として生まれ、人として育ち、人として歩き、人として疲れ、人として悩み、人として人と関わった存在として描かれています。
それは、神が人に合わせて一時的に姿を変えた、という話ではありません。 また、人間が神のようになった、という話でもありません。
キリスト教が語るのは、神が神であることをやめずに、人として生きた、という、非常に奇妙で、しかし中心的な主張です。
神は、人になることで、小さくなったわけではありません。 力を失ったわけでも、神性を手放したわけでもありません。 それでも、人の限界の中に身を置くことを選んだ、と聖書は語ります。
時間の流れに縛られ、体を持ち、空腹を覚え、誤解され、拒まれる現実の中に、自ら入っていったのだと。
この「人となる」という選択は、必要に迫られたものではありません。 人に頼らなければ存在できない神の行動でもありません。 聖書が描く神は、人を必要としたから人になったのではなく、人に近づくことを望んだから人になったと語られています。
だからこそ、この近さには重みがあります。 同情だけではなく、共有があります。 理解だけではなく、参加があります。
神は、人の苦しみを外から説明する存在ではなく、その内側から知る存在として語られます。 人の弱さを評価する存在ではなく、その重さを背負う存在として描かれます。
それでも、聖書は強調します。 この神は、人の中に溶け込んで消えてしまったのではない、と。 人となっても、なお、神であり続けたのだ、と。
近づいても失われず、 関わっても揺るがず、 共に生きても、支えを必要としない。
その自由さが、この近さを、単なる感情ではなく、信頼できるものにしています。
もし、「神が人になる」という考えが、不思議に感じられるなら、それは自然なことです。 聖書自身も、この出来事を、簡単に受け入れられる話としては語っていません。
それでも、キリスト教は、この一点に立ち続けてきました。 神がどのような存在なのかを知る手がかりは、 人となった神の生き方にこそ、最もはっきりと現れているのだ、と。
次のページでは、神が「近づく」とき、どのような形を選ばれたのかに目を向けてみます。 聖書が語る神は、ただ距離を縮めただけなのでしょうか。 それとも、もっと深いかたちで人の中に入ってこられたのでしょうか。