聖書が語る神は、ただ待つ存在としてだけ描かれているわけではありません。距離を保ったまま、相手が戻ってくるのを静かに待ち続ける存在でもありません。

聖書の物語の中で、神はしばしば、人の側へと近づいていきます。

それは、人が十分に整ってからでも、理解が追いついてからでもありません。迷っているとき、立ち止まっているとき、あるいは、間違えた方向へ進んでいるときにこそ、近づいていく姿として描かれています。

近づくということは、簡単なことではありません。距離を縮めれば、相手の現実に触れることになります。痛みや混乱、弱さや恐れを、遠くから眺めることはできなくなります。

それでも聖書は、神がその距離を選ぶと語ります。

この近さは、感情に流されて起こるものではありません。必要に迫られてそうするのでもありません。神は、人に近づかなければならない存在としてではなく、近づくことを選ぶ存在として描かれています。

そこには、同情以上のものがあります。理解しようとする姿勢以上のものがあります。相手の場所に身を置くという、意志的な関わり方があります。

聖書の神は、人の苦しみを外側から説明する存在ではありません。正しい答えを遠くから投げかける存在でもありません。むしろ、問いや痛みが生まれている場所そのものに、足を運ぶ存在として語られています。

それは、人の側に立つために、自分の立場を失ってしまう姿ではありません。神は、近づくことで弱くなるのではなく、近づいても揺るがない存在として描かれています。

だからこそ、この近さには安心があります。距離が縮まっても、見失われることがないという安心。弱さが明らかになっても、関係が崩れないという安心。

聖書が語る神の近さは、人を包み込むためのものではなく、支えるためのものです。逃げ場を用意するためではなく、向き合う力を与えるための近さです。

この神は、人の苦しみを軽く扱いません。同時に、その重さに押しつぶされることもありません。苦しみの現実を引き受けながら、なお、道を見失わない存在として描かれています。

もし、神という言葉に、遠さや冷たさの印象が結びついているなら、聖書が描くこの姿は、少し意外かもしれません。しかし、ここで語られているのは、人に依存する神ではなく、人に近づくことができる神です。

近づくことができるということは、距離を取ることもできるということです。離れても崩れず、近づいても失われない。その自由さが、この神の近さを、信頼できるものにしています。

ここまで見てきたように、聖書が語る神は、光として人を照らし、待つことで関係を保ち、そして、人の側へと近づいてきます。

では、この神は、どこから来て、何に支えられて、こうした関わりを続けているのでしょうか。

次のページでは、その問いに少しだけ目を向けてみます。この神は、人に必要とされて初めて存在する神なのでしょうか。それとも、もっと深いところから、こうした関わりが生まれているのでしょうか。

→ 人となった神